松江近郷キリシタン史

ヨゼフ翁

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 松江近郷にキリスト教が伝来したのは、一つには広瀬の富田城主の関係と、今一つは安来・揖屋港の関係と資料にある。
 富田城の関係は、1391年(明徳2年)広瀬・富田城の守護・山名満幸が反乱したとき、足利三代将軍義光はその好機を捉えこれを討伐、山名氏勢力削減に成功、その時、大功をたてたのは京極高詮で、高詮は出雲・飛騨・近江半国の守護に任命された。当時高詮は侍所長官で、自身出雲下向出来ず、弟の高久(近江の尼子の庄に住み、尼子高久と名がついていた)の子、持久を守護代として下向させた。
 京極氏は代々近江の国太守、日本の中心地で異国文化、キリスト教文化等早く吸収出来、京極高知はキリシタン大名の一人となる。したがって、その家臣の中にもキリシタンが多数いたことは否めない。
 尼子氏は仏教(禅宗)帰依者であったが、配下には京極氏の影響ありてキリシタンがいた。現に広瀬南部、安来西部等隠れキリシタンの言い伝えが残っている。又、揖屋(東出雲町)は港として栄え、キリスト教が入って来たと町誌にはある。
 1638年(寛永15年)松平直政、松江城主となり江戸勤め時、1642年(寛永19年)松江近郷キリシタン迫害の事が県史にあり、直政が国家老乙部・神谷両人に、安来及び出雲郷(あだかえ/東出雲町)にキリシタンがいるので家さがしをして処分せよとのことを飛脚をとばして命じたと県史にある。
 なお、東出雲町誌・隠れキリシタンの部には、1697年(元禄10年)揖屋の庄屋・岡村理左衛門は、天主教徒の件で磔(はりつけ)となるも信徒の消息を黙秘す。同町誌では更に1732年(享保17年)の事、天主教徒なお存す帳を監察使に呈す……揖屋村の天主教徒・市三郎の死、等が出雲人別帳にある事が記されている。


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