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 松江においては、明治初年の県政、及び浦上切支丹史に、1868年(明治元年)参議木戸孝允、長崎にて浦上村信者114人を捕え、津和野、萩、福山の三藩に預け、翌2年11月、3,300人を捕え、鹿児島から富山、名古屋に及ぶ21藩に預けた。松江藩には第2回目に捕えられた人達が預けられた。浦上の戸主12名は、12月4日、船にて海路9日間、福山の鞆に上陸、滞留12日後、松江に向かった。
 一方、戸主達とは別に家族達75名は浦上の庄屋に集められた後、西役所で松江預けを申し渡され、広島、津和野行きの信者と一緒に陸路、長崎県北松浦郡御厨村(現在の松浦市御厨町)に着く。
 75名の者、8畳の間に押し込められ食物も十分に与えられず滞留30余日、漸く汽船で荒れる玄海灘を渡り尾道に上陸、寺院にて一泊。翌日、松江藩県役人の手に渡り1家族に兵1名つきて陸路松江に向かった。厳寒雪の中、赤名峠を越える。
 漸く11日目に松江の南半里許りにある乃木の善光寺に着いた。この善光寺で先着の戸主12名と一緒になった。途中で老人1名、子供が1名倒れた。到着後も2名か3名か帰天された。
 寺の庵で過ごすこととなったこの方達は、労働は山野開墾等、老人子供はぞうり造りで、日々の食事は少量の主食と漬物であった。役人の手前、この人達は改宗したとしていた。乃木郷土誌には、改宗しても安息日だとして日曜日の作業は拒否し食糧をもらえなかったというから、心からの改宗ではなかったと思われる、と記載されている。


善光寺(浜乃木一丁目)

 明治初年の県政にも日曜日には作業を拒否したので日曜日には食糧がもらえなかったので、毎日の飯の一部を干飯とし、日曜日にはそれを粥にして食ったこと、1人1日4合の食料が途中で役人にとられ、2合くらいしか渡らなかったとある。
 なお松江藩県では明治2年10月から3年9月までの決算書に「米139石4斗2升、金262両3歩、銭5,540貫960文、御預異宗徒費」とある。また松江藩県の官員履歴を見ると、明治4年5月29日、勝田千之助松江藩権大属が異宗徒掛とあり、同4年7月14日廃藩置県となるが、同年10月12日戸籍兼弁務引受の松田権少属他4人が異宗徒引受兼勤となる。キリシタン関係は戸籍課兼務となり、改宗のことは問題でなく寄留者の扱いであった。
 1872年(明治5年)、県は全員改宗した事とし長崎へ帰した。信徒の前川寅五郎、藤村トモ等は「改宗」ということに最後まで反対したが帰された。この方達は帰ってもおそらく家財道具等はなくなっており、その上改宗をののしられて、意気地無し者と言われながらキリストの道を歩まれたであろう。
 
 松江教会では、キリストの御名の為に苦しまれ帰天された方々、及び、信者未信者を問わず全ての死者の方達のため、毎年11月2日ミサをあげ、信徒一同真心こめて、彼等に永遠の安らぎが与えられ、主の光の中で憩われるよう祈りを捧げています。


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