松江市指定文化財

“京極高次供養塔”に因んで

ヨゼフ翁

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 松江市教育委員会は2004年6月7日、市内竹矢町安國寺境内にある松江藩二代藩主・京極忠高の父“京極高次”の供養塔(高さ182.3cm、最大幅62.2cm)を市指定文化財に指定したと発表。初代藩主・堀尾家断絶後、若狭小浜(福井県小浜市)から入国した忠高が松江藩主を務めた1634年〜1637年頃、亡父高次を弔うため造られた塔である。
 『市教委は松江地域で京極氏をしのぶことができる唯一の建造物で、越前地方の石材と型式を採用した宝きょう印塔で、県内では珍しい。なお高次、忠高の墓は滋賀県内にあり、国の史跡に指定されている』このように山陰中央新報に記載されていた。
 京極家は広瀬の富田城および松江の千鳥城(松江城)で私達とゆかりが深く、“松江近郷キリシタン史”にも尼子氏及び京極家のことを記した。今回、市の文化財となった高次供養塔に因んで、キリスト教との出会いと当時の様子をいろいろな資料をもとに書いてみた。
 「日本キリスト教歴史大事典」(教文館)によると、竹矢町安國寺に供養されている京極高次は、1563(永禄6)年生〜1609(慶長14)年没、キリシタン大名、大津宰相、若狭守、小法師小兵衛と称す。京極高吉の長男で、京極高知の兄である。キリシタン信仰に熱心な母・京極マリアの勧めで1601(慶長6)年〜1602年に受洗した妻に続いて受洗している。
 京極高次の父・京極高吉 1504(永正1)年生〜1581(天正9)年没 キリシタン大名 近江上平寺城主長門守 妻は浅井久政の娘(のちの京極マリア)である。1581(天正9)年2月頃、安土でイエズス会のロレンソから40日間ほど教義を学び、妻と共にオルガンティノ神父から受洗し数日後に帰天す。
 京極マリア 1542(天文11)年頃生〜1618(元和4)年没 キリシタン 俗名不詳 京極高吉の妻 1581(天正9)年、完成したイエズス会の安土住院(カザ)で毎日行なわれた説教を夫と共に40日間聴き、同年2月、オルガンティノ神父から受洗、信仰厚く各地で布教につとめられた。
 京極高知 1572(元亀3)年生〜1622(元和8)年没 キリシタン大名 京極高吉の次男 京極高次の弟 宮津城主 1596(慶長1)年洗礼を受けた。
 「契利斯督記」(キリスト記)、松平藩「切支丹人名録」等によれば、京極高吉夫妻が1581(天正9)年に安土でキリシタンに改宗したことは事実であるが、高次と高知は棄教し、高次の嫡子・忠高はキリシタンにはならなかった、とある。
 続々群書類従、第十二宗教部「契利斯督記」(江戸宗門改役の古記録集。1639年〜1658年に各地で発見されたキリシタンの統計が載っている)には『石見国、亀井能登守領分 津和野ヨリ侍 宗門一人出申候。古田兵部少輔領分 浜田同断(同断:前の通り、つまり浜田からもキリシタン侍が一人出た) 松平出羽守 出雲国松江ヨリ宗門二三モ出申候(キリシタン二、三人いた)』このことは「日本史小百科・キリシタン」(Hチースリク監修、太田淑子編、東京堂出版)に地図とともにまとめてある。


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