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 この記には『1620年 イエズス会士 ポルロ師、山陰地方に来訪』とある。「日本切支丹宗門史」(クリセル神父校閲、吉田小五郎訳 岩波書店)には、山陰地方巡回宣教されたヨハネ・バプチスタ・ポルロ神父について『ミラノの人、1611年36才の時、四誓願のイエズス会員となる』とある。
 ポルロ神父は中国地方、四国等で信者達が激しい迫害を受けていた播磨・備前岡山を訪問、岡山のキリシタン達は御摂理に信頼し進んで殉教した。広島で或る著名な人に洗礼を授けた。
 ポルロ神父は美作に入り、次に初めて伯耆、出雲、因幡に入った。1620年頃、伯耆には永久の雪を戴いた巨大な山岳(大山)があり、そこには四時悪魔が現われて崇拝の的となっていた。山麓の附近は配流の地となり、信仰故に苦しむキリシタン達の貴重な手本は復活に対する一つの象徴となった。
 神父は出雲から海岸に沿い、ぼこぼこする砂地を突っ切って鳥取に行き後、淡路に行った。神意はそこにも選民をつくり幸福な流人達はイエズス・キリストの兄弟を得た。キリシタン達は熱心にかられ神聖な秘跡の助けによって、この世の何ものをも恐れなかった。中でも広島のフランシスコ遠山甚太郎と母・妻、神に向けての愛の悦びのうちに殉教された様が記されていて胸を打つものがあった。
 ポルロ神父は1640年頃、小さな邑(村)で住民全員と共に火あぶりになった、この住民は一人も逃げられなかった、と記されている。
 「日本史小百科・キリシタン」には記載されていないが、日本ドミニコ会殉教録「信仰の血証(あか)し人」(聖ドミニコ修道会、岡本哲男訳)によると、1633年2月〜8月の間にルカス・デル・エスピリツ・サント神父(ドミニコ会司祭、列聖)が山陰へ巡回されている。サント神父あるいはルカス神父とも言われ、山陰巡回の年の10月19日、長崎西坂で穴吊り刑にて殉教され列聖されている。
 「日本キリスト教歴史大事典」(教文館)には、ルカス・デル・エスピリト・サント、1594生〜1633没、スペインのサモーラ県ベナベンテの生れ、フィリピンで司牧していたが、1623年薩摩に上陸し長崎に潜入、京都、伏見から美作、出雲、因幡、能登に宣教旅行し隠れキリシタン達の信仰を強めた。京都で役人に捕えられた。師は「テ・デウム」を賛歌、牢獄ではマーサ神父達とヨハネ福音書の御言葉を唱えつつお互いの足を洗った。牢中は聖歌と祈りが響き渡った。やがて彼等は足かせ、首かせをつけられ神戸から小倉を船で、そこから歩いて長崎まで、師の背中に「極悪人である」と書かれた札が下げてあった。役人が「信仰を捨てるなら褒美を与え地位につけてやる」と言ったが、信仰が強く、長時間の苦しみの後、殉教された。10月19日の事と記されてあった。
 市文化財、京極高次供養塔に因んで、当時のキリスト者に関することを資料をもとに記載せしも、そもそもこの資料は、多くの方々から「キリストの愛」によって賜ったもので、ここにあらためて感謝するものである。特に広島の丸亀様からの御心労の資料には、只、唯「主の聖名を賛美しつつ」謝誼の念を持って心より御礼申し上げる次第なり。この資料は整理し松江教会の後の方々の為に「回心」の恵みに役立つようにせねばならぬと思いつつ、テ・デウム(聖歌12)われ神をほめ……を口ずさんでいた。


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