松江近郷キリシタン史 2

― 安来・赤江の南蛮寺 ―

ヨゼフ翁

(1)
 前回は、松江近郷にキリスト教が伝来した二つの点〜広瀬の富田城主・家臣の関係、また、揖屋・安来は港町としてキリスト教が入ってきた等、町誌及び資料によって書きました。
 今回は安来市誌及び安来史に関係のある旧能義郡の資料、仏教関係の資料で当時のキリシタンの様子の一端をご紹介させてもらいます。
 1582(天正10)年、織田信長及び当時の指導者階級の庇護の関係で全国のキリシタンは約15万人、教会堂の数、約200にも及んだが、豊臣秀吉の時代になるとキリシタン増加を恐れ、いろいろな理由をつけキリシタン信徒禁圧の政策がとられた。その頃、安来のキリシタンはどうであったでしょうか。
 「安来市誌」廃寺一覧表に「住所:才下(安来赤江)、寺号:南蛮寺、伝承その他:赤江町地内字才下に遺称地がある。通称ナンバジとよばれている。詳細は不明」とありました。
 「安来の歴史」編集者・松本興氏は、安来地方の切支丹遺蹟で安来地方に約400年前に切支丹信仰の遺跡があったことが判明、遺跡は田頼川付近、田畑約1ヘクタールを地名「南場地」(ナンバジ)と字名に残っている。
 南場地は南蛮地の訛ったものと言われ、これは安来市文化財保護委の手で調査された。現地には一隅に塔石残片が祀られ「ぼた餅地蔵」の異名で地域の人の願掛けの対象となっている。
 また安屋祥(あやめ)神社(尼寺趾)もあり、尼子時代(天文12・13年)1543・1544年は富田川(飯梨川)の下流、論田に当り、尼子水軍御船手組等、朝鮮、支那との交易を示唆、また、南蛮寺に関連して荒島日白町には「毛人屋敷」跡があり、その付近に円光寺の前身神宮寺跡も畑地となっている。
 また、西赤江仲仙寺には、御影石の「切支丹灯呂」がいつの頃からか建っていたとか伝えあり。同型の灯呂が安来市の個人宅にも遺存とありました。
 私の知人で赤江・才下在住、法雲寺(禅宗)檀家のK氏宅に「赤江荒島川西二十四番及び番外地蔵尊参拝同行記」があり各地蔵の由来及び御詠歌が記載されていた。その中に第三番、日白伯母地蔵(縁日8月20日から22日)、荒島日白の「毛人屋敷」跡にあり、大きな木彫りの地蔵さん(座像)高さ約1m位、毛人という言葉はもともとキリスト教信者の西洋人のことで、南蛮寺附近の信者が追われて日白の山の中に隠れたものという。この人達が卜蔵新田埋め立て及び毛人隧道(トンネル)造りに多大の貢献をしたと言われている。
 御詠歌第三番地蔵「伯母地蔵 頼む心は大山の智明に勝る法の白玉」、上智の座、聖母マリアが思われた。



 また、第十三番地蔵は天御前(アメ御前)地蔵、ぼたもち地蔵、くずれた塔石残片が重ねられそのような名がつけられたのか。広い田が続く田園という感じの所に少し雑木が生え、永田家の墓があり、その叢にある。
 なお、此の地は昔、南蛮寺のあった附近の地と伝えられているが洪水のため、はっきりしない点が多い。地名でアヤメ近くに南場地(ナンバジ)という所があるといわれている。荒島と赤江とが交わった地点です。田頼川下流にあるこの地からキリスト教信者(その当時は天主教徒)が追われ日白毛人の山奥に隠れたといわれています。



 さて、第十三番、天御前ぼたもち地蔵御詠歌「天(アメ)御前、姿は清し地蔵尊 参る心は頼もしの君」、天(アメ)の元后(キサキ)聖マリア賛歌のように私は聞こえました。


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